愛し方を学ぶ(ひよこ08)
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| 「人生は愛の学校」 子育てに必要なこと、それは、一 にも二にも、「愛」です。 ただ「愛」と一言で表現しますが、愛すること、愛し続けること、それは簡単なことではありません。 本屋さんに『愛し方の分からない親たち』というタイトルの本がありました。私たちに必要なのは、愛があるかないかではなく、愛し方を学ぶことです。 今回の学びは、最も大切な愛について学びますが、その前提は、私たちは愛することを学ぶ必要があるということです。 人生は、一生かかって愛することを学ぶ学校です。結婚も、子育ても、その中の大きな学課の一つです。 私の今日までの成績表は、赤点だらけのような気がしますが、幸いに退学はないようです。神は忍耐をもって、愛の学校の先生として私を導いてくださっています。今も、これからも。 |
| 真の愛を求めて
(1ヨハネ3・16) このヨハネという人は、愛が分かったと言いました。 皆さんは、今まで自分が愛されていると実感した時のことを覚えていますか? それはどんな時でしたか? 愛していると聞いた時ではなく、確かに実感した時のことです。
明治時代の翻訳家で二葉亭四迷という方がいました。彼は、当時 I Love You という英語を日本語に訳そうとしたのです。 | しかし、LOVEに相当する日本語が当時ありませんでした。 皆さんなら「愛」という言葉を使わないで、どのように訳しますか? 今まで聞いた中では、私はあなたを「理解している」「受け入れている」「一緒にいる」「知っている」などがありました。どれも素晴らしい表現ですね。 さて、二葉亭四迷は何と訳したのでしょうか?
二葉亭四迷 |
彼は、「私はあなたのために、死ねる。」と訳しました。 名訳だと思います。
自分が愛されていると分かっている子供。愛されていることが分からない子供。両者の歩む人生は、大きく違ってきます。 | このヨハネは、「愛の使徒」と呼ばれている人です。その文章には愛が満ちています。しかし、以前のこの人のニックネームは、「雷の子」と言われているところを見ると、怒りの人だったようです。 「雷の子」から「愛の使徒」に変わった秘訣は何でしょうか?
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人は、愛されないときに悲しみを持ちます。悲しみが熟成すると怒りになります。怒りが熟成すると憎しみとなります。 | ヨハネは誰よりも、愛されなかった人だったのかもしれません。 ある人が、今の日本の子供たちを見て、みんな怒っていると言いました。心の中で、イライラして、焦って、怒っている。なぜですか? 真実の愛を知らないからです。親はみんな言います。「あなたのために、これだけのことをした。」でも、どれだけ物が買い与えられ、不自由なく生活できても、子供たちは愛されていると感じないのです。 なぜなら心が無視されているからです。ただ聴いてほしい、赦してほしい、信じてほしい、本気で関わって欲しいのです。
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『愛という名の支配』というタイトルの本がありました。「あなたのために」「愛しているからこそ」と、愛を語りながら、その人格を支配する。でも、どんなに「あなたのため」と言われても、自分の考え、判断、選択が尊重されずに、何もかも、親のレールに従って、親の言うことにハイを言わされて、感情も抑圧されているなら、それはただ苦しいだけです。ますます愛が分からなくなります。 | 愛されていると感じない子供たちは、悲しみを持ち、そして怒りを持ち始めます。その怒りは、爆発的なかたちとなって突如現れます。「あの良い子が、あのおとなしい子が、なぜ?」それだけ本当の自分を抑圧されてきたということです。 怒りを外に向かって表現する子供たちは、街に出て行って他者を傷つけます。しかし、怒りを外に現せない子供たちは、それを自分自身に向けます。自分で自分を傷つける自傷行為に走ります。部屋に引きこもって、手首を切ったり、壁に頭を打ち付けたり、まるで自分を罰しているかのようです。
家の外で他人を傷つけて暴れる子供たちも、部屋に引きこもって自分を傷つける子供たちも、原因は同じです。 | どんなにしても、理解して、聴いて、受け入れてもらえない。愛されない悲しみと怒りで、今の子供たちの心は一杯です。
| 愛が分かる時
私たち人間は、偶然に存在しているのではありません。神は、あなたをかけがえのない存在として意味と目的をもって創造されたのです。しかも、愛する対象として人間を創造されたのです。 | だからこそ、人間は愛がなければ生きていけないのです。 ヨハネは、誰よりも愛が分からない人でした。しかし、彼はある時「愛が分かった」と言いました。 それはキリストが十字架で死んだという事実を通してです。キリストは、人を生かすために、自分の命を捨てられました。しかも敵対する者のために、神に逆らう罪人のために死なれました ヨハネは、自らの怒り、そこにある罪の深さを知りました。そしてその自分の罪を清めるために、キリストが十字架で死なれた分かったとき、その時に愛が分かったのです。
彼はその福音書の中で、何度か自分自身のことを記しています。普通なら「私は」と書くはずですが、彼は自分のことを「イエスに愛された弟子」と書くのです。これが彼の全てです。 | 彼は愛されている自分を発見したのです。その時、彼は「雷の子」から「愛の使徒」に変わったのです。 誰よりも愛が分からなかった者が、誰よりも愛を語る者に変わったのです。 私たちの子供たちも、「愛されている自分」を生きていけるなら、その子供は間違いなく幸福です。 私たちの子育ての目標も、子供が自分のことを「自分は愛されている」と当たり前のように言えるようになることです。それが人格の自立とも言えるのです。
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それでは、子供たちが愛されていることを実感するために、どのようにしたらよいのでしょうか? | 私たちは、誰でも本能的に愛することを知っています。そして愛されたいと思っています。ですから、あえて愛し方を学ぶというのも、おかしな話です。しかし、それを学ばなければならない現実があることも事実です。 私自身は、今でも「愛し方を学ぶ学校」という学校の生徒です。なかなか卒業できそうにありません。この学びは、本来は必要のない学びですが、私のように必要とする方々がいることを踏まえて、愛し方について考えてみましょう。
一番分かりやすいのは、子供たちに聴いてみることです。しかし、子供たちは、「自分のラブタンクは今この位貯まっているから、もう少し愛を頂戴」とは言ってくれません。 | 子供は小さければ小さいほど、サインを出します。思春期の子供もそうです。だから私たちは、心を傾けて、この子は今は何を求め、何を感じ、何を言いたいのか? それを全力で聴くのです。
| 子供たちの叫び
子供たちは、ただ愛して欲しいのです。親が愛情の表現、愛情の証拠とすることが、果たして子供に愛として伝わっているのでしょうか? | 「私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ何の役にも立たないのです。」(聖書)
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子育ての目標は人格の自立です。子育ては、子供の人格を育てることです。人格を育てることは、子供を愛することです。愛するとは、子供の人格を尊重することなのです。 | 子供との関係が人格的であるか? それとも機械的であるか? ここが大切です。 私たちがどれだけ犠牲を払って与えても、もし人格を尊重していなければ、それは愛車をピカピカに磨いて、プレミアムのガソリンを入れるのと、どこか違うのでしょうか? 全てを与え物質的には豊かであること以上に、子供たちは、自分のことを、神に造られた「人間」として扱って欲しいのです。 人間として扱うということは、子供と上に記したような人格的な関係をもつことです。
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親は、子供の人格に一歩も踏み込んではなりません。これが最も子供を愛から遠ざけることになります。人格を支配しながら、どれだけの犠牲を払っても、子供は愛されいてると感じることは決してありません。 | 私も自分の子育てを振り返ってみて、子供たちに、どれだけ正しいことを言っても、まず聴いてあげないと何にもならないのだと痛感します。 私の場合は、物質的にはそんなに多くを与えることは出来なかったと思います。 その分、正しい知識といいますか、何が正しいことなのかを教えたつもりです。
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しかし、いくら正しいことを言っても、子供の心を聴くことがなければ、子供にとっては、お父さんの小言としてしか伝わりません。 | 物質的、金銭的、正しい知識も、人格を無視し、押し付けたのでは、愛は伝わらないのです。 苦しむ子供たちを前に、「これだけやってあげたのに、なぜだ? 甘えているのか?」と言ったところで、肝心なことは何も伝わっていないのです。 先のヨハネが「愛が分かった」と言ったその瞬間、それはキリストが命を捨てた時なのです。 私たちにとって命を捨てるとは、関係の方向性を変えることです。 自分はこうしたい、これを与えたい、これを教えたいという「自分」を捨てて、「子供の心に応えていく」ことなのです。 「自分が」ではなくて、子供は今、何を求め、何を感じ、何を言いたいのか? そこに自らの心を捧げていくのです。その時に、愛が伝わります。
考えてみれば、愛することは決して、無理、難しい、出来ないことではありません。 | 個室を与えなければ、習い事に行かせなければ、これを与えなければ、と言われたら、実際的に無理なことがあります。 しかし、愛することは、心があれば、他には何もいりません。費用もただです。 私は、今でも「愛し方を学ぶ学校」の生徒です。 以前は、まさにヨハネのような「怒りの子」でした。特に思春期の時には、怒りで行動していたように思います。やがて大人にになり、その怒りも表面的には落ち着いた頃、私は母との会話の中で、兄弟三人が両親の不和の中で、とても辛かったこと、それによって大人になった今でも心に重荷を持っていることを話す機会がありました。その時に、母は私の心を全く理解しない、ばかりか逆ギレされるということで私の心は行き場を失いました。そして、理解されない悲しみを超えて、怒りがわき、相手に謝らせたいという思いで一杯になりました。 そして私は、父親になりました。
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自分自身が「怒りの子」で、どうやって子供を育てることが出来るでしょうか? | 私こそ「愛し方の分からない親」だったのです。 しかし私もヨハネと同様、「愛されている神の子供」になったのです。私の悲しみ、怒り、この痛みをキリストが癒してくださったのです。 私にも「愛が分かった」のです。 子育ては、自分育てです。子供を通して、自分の弱さ、足りなさを見せられます。しかし、それは同時に恵みの時なのです。その時にこそ、自分にとって失われたものが回復する時なのです。
私は今でも父親です。 | これからも父親であり続けるでしょう。 充分に出来るからではありません。 今も、これからも、自分は「愛されている神の子供」だからです。これが私たちの支えであり、希望です。 文:関 真士
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