言葉を大事にする (子育て05)
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![]() | 今回は、私たちが普段使用している言葉について考えてみましょう。 「ことばは神であった」(ヨハネ1:1)
とあるように、言葉とはその存在そのものであり、まさに人格を表現するものです。ですから、「人格的である」ということは、自分の感じたこと、考えたことを言葉によって表現して、相手に伝えるということです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 言葉には創造の力がある 私たちが普段使用している言葉は、何かを相手に伝えるという情報伝達の手段としての言葉です。しかし、聖書では、言葉とは単なる情報伝達の手段だけではなく、言葉イコール「出来事」として捉えられています。創世記における天地創造において「神は光よあれと言われた。すると光があった」と記されているように、神の言葉は、そのまま出来事となりました。イエスの言葉も同じです。教えるという情報を伝達するだけではなく、病人をいやし、波や風をしかりつけ、死人のラザロに「墓から出てきなさい」と命じられ、イエスの言葉は常に出来事をそこにもたらしました。聖書には「無から有を呼び出される神」(ローマ4:17)と記されていますが、まさに神は、その言葉をもって、何も無い所に新しいものを創造する力があるのです。それは神の創造主としてのご性質が、その言葉を通して現されているということなのです。
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ですから私たちが、聖書を神の言葉として信じて受け取る時に、その言葉は、単なる一つの知識として頭の中に取り込まれるのではなく、言葉通りの出来事を私たちの人生にもたらすのです。この聖書の言葉を神の言葉として体験するということが、すなわち神との出会いでもあるのです。 さて私たちの言葉は、人の言葉であって、神の言葉ではありません。私たちは造られた者であって、創造主ではありません。どんなに声を大にしても「無から有を」創造することは出来ません。しかし、人の言葉にも、出来事をもたらすという創造的な力が秘められているのも確かです。 |
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| 権威ある言葉 この世においても、神が定めている秩序があります。親と子の関係で言うならば、親は子供に対して権威をもっています。学校の先生も生徒に対して、上司は部下に対して権威を持っています。
そして権威ある言葉は、それだけ大きな影響力を持っています。友達同士の中で、「バーカ」と言われても、それで自分は「バカ」なんだと心に決定付けられることはありません。むしろ言い返すことも出来ます。しかし、学校の先生から「おまえはバカだ」言われたら、その言葉の影響力は比べ物になりません。まして親が子供に「おまえはバカだ」と言えば、確かにその言葉は出来事としてその子供の人生に成っていきます。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| より権威のある言葉で
さて、自分自身を振り返る時、どのような言葉が自分の性格、生き方を左右してきたでしょうか。私は、小学六年生の時に、担任の先生から皆の前で「関は社会科が良く出来る」と言われたことがあります。これは当時の私にとって大きな一言で、私は自分は社会科が出来るんだと自覚し、中学校に入ってからも社会科だけはクラスでもいつもトップでした。あるいは、私は小さい頃からいつも母親に「お前は痩せている」と何度も言われました。母親には痩せているように見えたのでしょう。あるいは昔のことですから子供の栄養状態が心配だったのかもしれません。私も自分は痩せていると思っていました。しかし、学校の身体測定で、**係数という肥満度をチェックする計算があり、それによれば私は適正体重の真ん中なのです。決して痩せているわけではなかったのです。しかし客観的な数字の裏づけがあっても、やはり私は痩せていると思っているのです。大人になり、お腹も出てきて、やや肥満という数字が出てしまっても、私はどこかで自分は痩せていると思っているのです。たまに鏡に映った自分の姿を見て、痩せていない自分を見るのですが、それでも基本的には自分は痩せていて、痩せている自分が太っているのだと思っているのです。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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権威ある言葉によって刷り込まれた思いは、客観的な事実にまさり、当事者の人生をコントロールします。ある方は、親から「おまえは駄目だ駄目だ」と言って育てられました。ですから、周りがどんなにそんなことはないと励ましても、実際に優秀な成績を修めていても自分は駄目だと思い込んでいます。また親から「おまえは気が小さい」と言われて育てられれば、気が小さい性格になりますが、その自分が嫌いであれば、逆に気の大きな自分を演じるようにもなります。あるいは、よくあるセリフですが、「男は人前で泣くな、男は強くあれ」という言葉によって、感情を表現できない男、自分の弱さを受け入れられない、頑張りす過ぎる男が造り出されました。それによって多くの男性が抑圧からくる鬱症状に悩まされています。また、「親の言うことには黙って従え、文句を言わずにハイと言え」と言われて育てられれば、表面的には従順ですが、自分の意見を言うことが出来ない、本心を抑圧するような生き方をするようになり、本人は苦しみます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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さて、もし権威ある言葉が自分の人生に否定的な影響を与えているのなら、どのようにして私たちは自分の人生を取り戻すことが出来るでしょうか。先ほどの百人隊長のケースを考えれば、もし百人隊長が言った言葉であれば、十人隊長の言葉はその言葉に勝てません。しかし千人隊長の言葉は、百人隊長の言葉に勝ります。なぜなら千人隊長の言葉の方が権威があるからです。ましてローマ皇帝の言葉は、どれだけの権威があるでしょうか。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 私たちが言葉から解放されるためには、その言葉を発した人よりも、さらに強い権威を持っている方の言葉が必要です。私たちは、ことを知っています。私たちは、自分をコントロールしている言葉を、神の言葉によって上書きするのです。もし、「おまえは駄目だ」という言葉があれば、神の言葉の「わたしの目にあなたは高価で尊い」という言葉で上書きするのです。今日まで人生を形成してきた言葉の一つ一つを、神の言葉に照らし合わせてみましょう。自分の性格、価値観、基準など、もし真理に反するのであれば、神の言葉によって上書きしていきましょう。そのようにして神の言葉によって私たちの人生を建て上げていくのです。 | 「神の言葉」こそ、すべてにまさる権威ある言葉である
子供に影響を与える親の言葉 |
先ほども述べましたが、子供にとって親の言葉は権威者の言葉です。ですから親の言葉は特別な力を帯びています。親の言葉が子供に祝福をもたらし、あるいは呪いをもたらします。たとえば、してはいけないということを繰り返す子供がいます。親はそれを見て「あなたは本当に、何度言っても分からない子ね」とか「あなたは、いつもいつも、同じことばかりする子ね」と言ったとします。もし言葉が出来事をもたらすのであれば、どのような出来事が子供の身に起こるでしょうか。
「あなたは分からない子」「あなたは同じことをする子」という出来事が子供のうちに形成されていくことになります。ですから当然また同じことが繰り返されます。それでまた同じセリフで叱ります。そしてまた同じことを繰り返します。まさに悪循環です。時に、親は子供がそうなるように言葉で影響を与えていながら、その言葉とは逆のことを期待しています。「あなたは嘘つきだ」と伝えながら、正直者になることを期待しています。 |
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「あなたは勉強ができない」と伝えながら、勉強の出来ることを期待しています。これでは一生懸命に肥料をあげながら、一方で一生懸命に育たないようにしているということで、まったく矛盾しているのです。 | 親が子供を信じる時、奇跡が起こる。
私たちが子供に肯定的な真理に基づいた言葉を発するのに必要なのは、「信じる」ことです。それは目の前にいる子供が、神に造られ、神に導かれている子供であることを認めることです。そこから子供は必ず神の子供として成長していくと信じることが出来るのです。結局、否定的な言葉というのは、親自身の不安から来る言葉がほとんどです。「子供がこうなったら、ああなったらどうしよう」といったような不安です。そしてその不安は、自分を責める、責められる、自分自身に対する不安でもあるのです。しかし、もし子供を信じる、正確に言えば、子供を導いてくださっている神を信じることが出来れば、心に平安が与えられます。平安からは、子供を生かす言葉が溢れてきます。
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例えば、上記の例であれば、「あなたはやれば出来る子、ちゃんと何が悪いことかを判断出来る子」という大前提の上で、「でも間違いを犯した。どうして失敗したのか? どうしたら次に失敗しないように出来るのか?」というようなコミュニケーションをとることが出来るのです。 |
ある牧師の子供が非行に走り、監獄に入れられるほどまでになりました。しかし、親は面会に来る度に、いつも「私たちはおまえを信じている」と伝えたのです。それは犯した悪行から目を反らせようとする言葉ではなく、むしろどんなに悪の道に迷い込んでも、この子は必ず神のもとに立ち返り、神のために働くようになる、という信仰から来る言葉でした。この言葉は、その子供を立ち直らせ、やがてその子は、神学校に入り牧師への道を歩み始めました。 |
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子供が何か失敗したり、悪いことをした時、「だから、おまえはこうなんだ」と言ってしまうか、それとも子供を信じて祝福の言葉を語り、その上で必要な躾けをしていくか、子供の人格形成の上で大きな分かれ目となります。 | 良い言葉を発する秘訣 | 子供を生かす言葉は、その都度考えて発することも大切ですが、むしろもっと自然に口からついて出てくるものであって欲しいと思います。そのためには、私たち自身がいつも心の中に良い言葉を蓄えておきたいものです。今の社会は、否定的な言葉で満ちています。新聞やテレビを見ても、私たちの耳に飛び込むニュースは、否定的なものがほとんどです。さらには複雑化する社会の変化の中で、多くの人々がストレスを溜め込んでしまう時代でもあります。自分はいつも否定的な情報やストレスを受けているのに、子供には肯定的な言葉を発するということは、大変なエネルギーを要しますし、それがまたストレスになってしまいます。
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そこで、大切なのは、私たち自身が、いかに良い言葉を聞いて日々過ごすかということです。神の言葉は私たちに平安をもたらします。そうであれば、子育てという偉大な働きは、神との関係を持たずして成しえないと、言っても過言ではないでしょう。神との関係、神の言葉を聴く、これらの営みを「祈り」と呼びます。子育ての一番の秘訣は「祈り」です。 |
ある人が次のような実験をしたそうです。鳥はどうしてさえずることが出来るのか? 鳥の雛を一匹は親鳥と一緒に、もう一匹は親鳥から離して育てました。前者の雛はやがて親鳥と同じように美しい声でさえずるようになりましたが、もう一匹は最後までさえずることが出来なかったそうです。この実験によって、鳥がさえずることが出来るのは、親の鳴き声を聴いているからだ、ということが分かりました。
私たちも神様から絶えず、平安と喜び、希望と感謝、愛に満ちた言葉を聴かせていただきましょう。その言葉で自分自身を養っていただきましょう。そうすれば私たちも自然とさえずることが出来るようになります。
たとえ子供に否定的な言葉を発して後悔することがあっても、その時にこそ、神のもとにひざまずき、十字架の赦しと愛を受け取りましょう。自分責めても、後悔しても、ますますさえずることが出来なくなるだけです。神の言葉は、すべての人間の言葉にまさる権威と力を持ち、悪循環を断ち切るのです。
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