家族と秩序 (子育て06)
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![]() | さて今回は、子供が子供らしくあることの重要性について考えてみたいと思います。聖書には、 「すべてのことを適切に秩序をもって行いなさい」 (第一コリント14:40) と記されています。これは神の家族である教会に向けて書かれた言葉ですが、そのまま、私たちの家族にも当てはめることができます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 家族は一つの機能 家族とは、個々の集まりですが、同時に一つの機能的な集団です。例えば家族の中で、一人の子供に問題行動が起こった場合、確かにそれは子供個人の問題ですが、同時にそれは家族全体の問題でもあります。夫婦の問題が、子供を通して現れている場合も少なくありません。起こってくる出来事を、個々の問題としてだけ捉えるのではなく、家族全体の問題として捉えていくことが大切です。私たちの身体もそのようなものです。様々な異なった部位が集まり、一つの身体を形成しています。そして足が痛んだ場合、それは足だけの問題に収まらずに、身体全体にその痛みは伝わってきます。そして足に問題があると思っていたら、実は原因は腰にあったということもあります。そのように、家族に起こってくる問題は、その目に見える問題にだけ目を奪われないで、真の原因を見出す必要があります。特に家族の場合、問題は家族の一番弱い所に発生しやすいものです。
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| よく日本でラジオ相談室というものを聴いていました。子供の問題を抱えている方々がラジオのカウンセラーに相談をします。不登校や暴力、引きこもり、という問題が多く見られました。多くは母親が相談してくるわけですが、ほとんどの場合カウンセラーは、子供の問題は、それ以上に親自身の問題であることを指摘します。その時ラジオの向こうで、母親が驚き戸惑っている様子が伝わってきます。問題を「子供の問題」として捉え、それを解決するために多大な犠牲を払い、良かれと思うことは何でもやってきた。しかし実は、問題は親である自分自身にあり、むしろ自分の努力が逆に子供をそのように追い詰める原因となっていたことに気付かされるわけです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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家族とは、個々が集まりながら、それぞれが歯車としてかみ合う、機能的な集団です。家族には、夫婦という関係があり、親子という関係があり、兄弟姉妹という関係があります。それぞれが秩序正しく機能していく時に、一つの家族として機能していくのです。もし家族の中に神が意図されていない形、つまり秩序が乱れる時、そこにはトラブルが発生してきます。 例えば、コンピューターがあります。PCの全ての配線や配列には秩序があります。どれか一箇所でも、間違った配線をしたら、トラブルが起こります。神は秩序の神です。無秩序に、たまたまの偶然の世界でありません。すべてのことに神の必然があり、秩序があるのです。家族の中にも秩序があります。親は子供ではないし、子供は親ではありません。子供は妻ではないし、夫ではありません。 しかし、ある場合には、子供と親の立場が逆転してしまうことがあります。この現象は「親子逆転現象」と呼ばれます。この現象はまさにPCの配線を逆につないでしまうようなものです。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 子供の危機@ さて、今日は神が造られた家族の秩序ということを念頭に置きながら、まず子供が子供でいるべき時期に、子供でいられることの大切さについて考えてみましょう。よく「あの子は子供らしい」と感じることがあります。それは何を基準に判断したのでしょうか。逆に「子供らしくない子供」とはどんな子供でしょうか。「子供」と一口で言っても、その年齢の幅は新生児から18歳くらいまであるわけです。その年齢に応じた子供らしさ、というものがありますが、素直さや純粋さ、時にわがまま、元気、活発などは子供らしさを感じる要素でしょう。
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ある30歳を過ぎた女性がいました。この方は神と共に生きるクリスチャンでした。しかし、この方は人をリードしたり、お世話をすることには能力を発揮し成果を挙げることが出来るけれども、自分がお世話になったり、リードされることは苦手でした。いつでもしっかりしたクリスチャンを演じているのですが、自分が甘えることや助けられることが出来ないので、心の内にはストレスが溜まるし、喜びを感じることが出来ませんでした。そして、やはり神にも心を開くこと、助けを求めること、甘えることが出来ないでいたのです。 |
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自分の内に何か足りないものを感じたこの女性は、一つのことに気が付かされます。この方が小学四年生の時に、お母さんが結核で入院しました。長い療養生活のために、お母さんは家にいることが出来ませから、この方は、三人兄弟の長女として、お母さんの代わりをすることになりました。本人も頑張りました。友達と遊びたい時も、おねだりしたい時も、甘えたい時も我慢しました。そして周りの大人は、それを「良く出来た子だ」「しっかりした子だ」と賞賛しました。この方は10歳の時に、もはや子供でいることをやめなければなりませんでした。そして大人の賞賛は、追い討ちをかけるようにして子供が「子供」でいることを許しませんでした。 一人の人間の中には、大人の部分、親の部分、子供の部分があると言われています。それぞれが立場や状況に応じて表に出てきます。そして人それぞれ三つの要素の強弱が違い、それがすなわち個性となります。子供の部分というのは、一番本音に近い部分ですが、この部分を失うと何とも味気のない人生となります。この女性は、結果として子供としての自分を押し殺し、大人として振舞うことが良いことだ、賞賛されるべきことだ、という価値観に縛られてしまうことになりました。ですから自分が大人の立場で人を養ったり、稼いだり、助けたり、保護したり、教えたり、リードすることに能力を発揮します。それは周りから見るととても立派なように見えます。どこに問題があるのか見えてきません。しかし、人間はいつも与えるだけでは生きては行けません。与えると同じくらいに、それ以上に受けることが必要です。自分が養われたり、保護されたり、助けられたり、甘えたりすることも大切です。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| この女性は、子供でいなければならない時期に子供でいられなかったために、心のバランスを失なってしまいました。周りからの賞賛はいよいよ自分を追い詰めます。しかし心の奥底では、10歳の少女が「私はもっと甘えたかった、もっとわがままを言いたかった。もっと遊びたかった。もっと抱きしめてほしかった。」と叫んでいるのです。 | あなたの 心の奥底で、 小さな子供が 叫び続けて いませんか? 子供の危機A |
この世界も人間も、偶然にたまたま存在しているのではありません。全ては神によって創造されました。ですから、自然界に厳然として秩序があるように、家族の形にも秩序があります。引力の法則一つとっても、その秩序が乱れればこの世界は成り立ちません。家族の秩序も同じことです。夫、妻、子供という要素で構成されている家族の、それぞれの関係の秩序が乱れれば、当然トラブルが起こってきます。
この場合も、親と子供の立場が逆転してしまっているのです。いわゆる「親子逆転現象」と呼ばれる状態に陥ってしまっているのです。場合によっては、親のするべきことを、子供が手伝わなければならない状況があります。しかし、それはあくまで手伝いであり、子供の心に親への軽蔑があるわけではありません。しかし「親子逆転現象」とは、手伝いではなく子供が親の立場に立ってしまう、その根底の動機には親への軽蔑がある、という場合のことなのです。 | 親と子供との立場が 逆転してしまっている、 「親子逆転現象」です。
さらにこの場合は、母親が本来は夫に話さなければならない愚痴などを、夫の代わりに子供に聞かせていたという、これは娘を夫の立場に置いてしまうということになります。この女性は、一人で父親と夫の役目をさせられていたわけです。必然的にこの女性は、父的、夫的な性格、生き方が形成されていくわけです。そのようなタイプの方には、依存的な、保護を求めるタイプの男性が寄ってきます。しかし、女性にしてみたら、そのような自分の父親的な男性は軽蔑の対象であるわけです。結果的に、良い異性との出会いが困難になっていきます。 |
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家族に本来あるべき秩序が乱れる時、その影響は色々な形で出てきますが、仕事、対人関係、異性関係にも影響が出てきます。あるいは、失われた子供時代を取り戻そうとして、童心に変えり過ぎてしまって、大人であることを放棄してしまうというケースもあります。 | 子供が子供でいられることは、とても大切なことです。特に子供を賞賛する時、どのような価値観に基づいて賞賛しているのかを吟味してみることは必要です。賞賛は子供を活かし、やる気を出させますが、逆に子供を追い詰めることもあるのです。昆虫にしても、いきなり成虫にはなれないし、植物にしてもいきなり実を結ぶことは出来ません。すべてに成長の時があり、「子供の時」があります。 年齢に応じた子供らしさというものがありますが、その子供らしさを定義することは難しいものです。しかし、一つ言えることは、子供とは本音で生きているものだということです。小さければ小さいほど本音です。それが成長と共に、相手への思いやりから本音の表現の仕方を学んでいくのです。しかし、それが早く大人になることを要求されることによって、本音を抑圧してしまう時に問題が出て来るのです。子供らしさとは、自由に本音を表現できることです。
上述したケースの場合、自分の意志とは関わらずに、大人にされてしまった、大人にならざるを得なかった、というものです。しかし、どんな理由があるにせよ、回復への道の入り口は、悔い改めです。悔い改めとは、進んでいる道の向きを変えることです。 |
まず、親子の逆転は、賞賛されるべきものではないということ、その価値観の中に自分の存在の価値を見出すことを放棄することです。言い方を変えると、神の価値観によれば、自分は子供でいても良い、子供としての自分は素晴らしいということです。 |
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次に無理もなかったにせよ、結果的に立ってはならない立場(親)に立ってしまったのですから、その立場から降りることを決意することです。 |
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そして最後に、福音を信じることです。聖書には、「イエスを信じる者には、神の子となる特権が与えられる。」(ヨハネ1:12)と記されています。福音によれば、イエスを信じる時、私たちには「神の子」の立場が与えられるのです。また聖書には、「私たちは、御霊によって(神を)アバ父と呼ぶ。」(ローマ8:15)とも記されています。「アバ」とは、赤ちゃんが最初に父親を呼ぶ時に発する言葉のことです。そのように、イエスを信じて御霊によって歩みはじめる、つまり神と共に歩む時、私たちは子供としての自分を取り戻すのです。信仰生活とは、神が自分の父であること、自分が神の子であることを、より深く、豊かに経験させられる過程なのです。ですから、神と共に歩む人生は、より本音で生きることが出来るようになり、より本来の自分を取り戻すことが出来るようになるのです。そこまで来ると、その人の親的な性質は、精練された金のように聖められ、今度は他者も自分も生かすために用いることが出来るようになるのです。 |
さて、そこで私たちは親として、子供が子供でいられるように心がけたいと思います。お手伝いの範囲を超えてまで親の役割をさせない。特に長男や長女には、つい過度の要求をしがちですから注意が必要です。すこし重荷が過ぎたと感じた時には、思いっきり子供に帰ることの出来る一日を作ってあげることも知恵の一つです。充分に子供の時期を過ごすことが出来ると、子供は時期が来るとたくましく自立をしていくものです。さなぎから美しい蝶が飛び立つように、それが神の創造の秩序なのですから。 |
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