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自分を見出すと祝福が来る (夫婦01)
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さて、新しい年に入り、ニューライフシリーズという、学びをスタートさせたいと思います。このシリーズは、今まで通り、家族の祝福を目的として、さらに自分自身を知ろうというものです。そして今回は、子育てはもちろんですが、夫婦の問題にも踏み込みながら、夫や妻を通して、自分自身を知りたいと願っています。何のために自分を知ろうとするのでしょうか? 自分を知ることによって、神の恵みを知るためです。そして、神が創造された通りの、自分、夫婦、親子、家族の姿を回復していくためなのです。 | |||
| 本当の自分はどこに?
「自分探し」という言葉が登場して随分たちます。 | |||
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職場の自分と家庭の自分。仲間といる時の自分と一人の時の自分。自信に溢れている自分と不安でたまらない自分。過去に捕らわれている自分と未来に進もうとする自分。どれが本当の自分なのでしょうか。 結局、すべてが自分だと言えるでしょう。よく一人の人間の中には、天使と悪魔がいると言いますが、正反対な自分が同居しているのが現実です。実に神秘的で複雑な小宇宙があるようです。 |
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なんて自分は冷酷なんだろうと思うこともあれば、一方で、なんて暖かいのだろうと思うこともあります。 なんて自分は心が広いのだろうと思うこともあれば、なんて狭いのだろうと思うこともあります。また他人からも、まったく正反対の見方をされることもあります。さらに人間は環境によってもまったく違ってきます。暑ければ汗をかきますし、上着を脱ぎます。寒ければ鳥肌が立ち、上着を着ます。同じ職場でも、立場によって言葉使いも、態度も違ってきます。あるいは以前観た映画のように、戦争時代のことですが、とても優しい心を持った男が戦場に送られ、次第に暴力的になり、平気で捕虜をなぶり殺すような者に変わっていく様を思う時に、人間とは、置かれた環境によって、どんな自分にもなれる可能性をもった者だと言えるでしょう。 このように、本当の自分とは? と考え出すと、出口のない迷路に迷い込んだような気になります。迷路の中で迷いながら、本当の自分を探しているのが、現代に生きる魂の旅人なのです。 | |||
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| 自分を見出す場
さて、このように人間とは複雑極まる生きものです。 | ||
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私たちは、何に属するかによって、自分のあり方も変わってくるからです。そして属するものが私たちの人生を支配します。 次の聖書の言葉をご紹介したいと思います。 | |||
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「キリストの内に自分を見出す」 (ピリピ3:19)
この御言葉を文脈から意訳すると「イエス・キリストを救い主として信じて救われるということは、自分の存在をキリストの内に見出すようになるということです。」となります。 |
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創造主だけが、創ったものを知っているのです。そして創造主なる神は、人間がどこで、本当の自分の姿を知ることが出来るのかを、教えてくださったのです。迷路の地図をくださったようなものです。私たちは、キリストの内にあって、初めて本当の自分を知ることが出来るのです。 | |||
| 私たちは、これから夫婦関係や親子関係を通して、自分の姿を知ろうと思うのですが、もし、キリストの内にある自分を知らなければ、その作業は、とても皮相的なもので終わってしまうでしょう。 | |||
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| 真の癒しとは
さて、今回は少し理屈っぽい内容になってしまいますが、大変重要なことですので、ご辛抱いただきたいと思います。 | ||
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たとえば、子供の中に自分を見出そうとするならば、それは子供が自己実現の全てとなりますから、子供に依存し、依存させる共依存関係が成立してしまいます。あるいは、仕事の中に自分を見出す人は、仕事が自分の存在の意味と価値をもたらすものとなります。そんな人が突然リストラなどされたなら、どれだけの喪失感があるか、それは自らの命を喪失させるほどになってもおかしくありません。 | |||
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また、私たちは、確かに過去の傷ついた経験が、今の私たちの生き方、特に夫婦関係、親子関係に、影響を与えているのですが、聖書が言う癒しとは、過去の傷の中にある自分ではなく、キリストの内にある自分を生きるようになることなのです。 決して、傷ついた自分が傷ついた自分に目を向け、何とかしようともがくことではないのです。私たちは、これから傷ついた自分を見て行かなければなりません。夫婦関係の回復には省く事の出来ないプロセスです。しかし、それはキリストの内にある癒された自分が、キリストの外にある傷ついた自分を見ることになるのです。 |
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すでにクリスチャンの方であるならば、自分の傷は癒されていないから癒しを求める、ということは、大変矛盾したことなのです。なぜなら救われるということは、癒されたということなのですから。「癒してください!」といくら祈って叫んでも「キリストの内にあって、すでに癒されている」ことを信じなければ、その祈りは終わりません。 | |||
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| 私は、家でよく探し物をします。財布がない、鍵がないと言って大騒ぎすることがあります。そんな時、、妻が「目の前にあるよ」ということがしばしばあります。目の前にあるものを、あると気がつかなければ、一生かかっても探しものは見つかりません。癒されたということを、その通りに信じた時に、癒しの旅は終わるのです。 | ||
| 最終的な選択 聖書の中に次のような言葉があります。
「一人の人(アダム)によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・・・一人の人イエス・キリストの恵みと賜物とは多くの人に満ち溢れるのです。」 (ローマ5;12〜) | |||
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聖書によれば、私たちはまず、アダムに属していると言うのです。アダムは創世記に登場する、神に創造された最初の人間です。このアダムは神が食べてはならないと命じた善悪を知る木の実を食べてしまいました。そして罪が入り、罪の報いとして死が入りました。それは川の上流で毒が流されたように、アダムから生まれた全人類を罪で汚染してしまったのです。ですから私たち人間は、誰が教えなくても罪を犯し、自己中心に生きる者になってしまったのです。 しかし聖書は、アダムによって全人類が罪人となったのと同じように、キリストによって全ての人が救われると述べるのです。救われるということは、私たちがアダムにあって罪人であるという事実から、キリストにあって義人であるという事実に変わるということです。 | ||
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ということは、私たちはアダムにあって罪があり、傷があるのですが、キリストにあっては、罪が赦され、傷が癒されたのです。 突き詰めて表現すれば、私たちは、自分の存在をアダムの内に見出すか、それともキリストの内に見出すか、ということになるのです。この選択が、「自分探し」という旅の最後に行き着く分かれ道となるのです。 | |||
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私たちは、これから自分を知り、そして夫、妻を知り、子供を知ろうとしています。自分の生き方、考えた方、人との接し方の動機に、傷ついた道がないかどうかを見て行こうとしています。しかし、それは新たな癒しの旅に出ていくのではありません。キリストにあって癒された新しい自分が、アダムにある古い自分を見ていくのです。そして古い自分を改善しようとするのではなく、古い自分をキリストと共に十字架に釘付けにしていくのです。そして古い自分はますます衰え、新しい自分はますます新しくなっていくのです。 |
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「私たちは、キリストと共に葬られたのです。・・・それは私たちも命にあって新しい歩みをするためです。」
(ローマ6:4) | |||
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自分がどこに属しているのかがはっきりしていないと、自分を知ろうとする作業は、ともすると自己の深遠に埋没していき、出口のない迷路に迷うことにもなってしまいます。私たちは、決して自分探しの旅に出て行くのではありません。キリストのうちに自分を見出した者として、古い自分を見据えていくのです。聖書は次のようにも言います。 | |||
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「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着たのです。新しい人は造り主のかたちに似せられてますます新しくなります。」 (コロサイ3:10) 「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去った、見よ、全てが新しくなった。」 (Uコリント5:17)
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これからの学びを通して、私たちは何をしようとしているのでしょうか。それは「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る」ことをして行こうと思うのです。 | |||
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アダムにある自分、すなわち古い人は、自己中心で、傷つき、痛み、両親に育てられた影響や、人間関係の中で、作られて来た自分です。しかし、キリストにある自分、すなわち新しく造られた自分は、愛に満たされ、赦され、癒され、神を父と呼ぶ者なのです。古き人を脱ぎ捨てること、新しい人を着ること、この二つが私たちの信仰生活の中に起こってくることです。 皆さんは、家の整理をしていて、物を処分出来る方ですか? なかなか物を捨てられなくて、物がどんどん溜まって困る人もいます。逆に何でも捨て過ぎて後で困るという人もいるでしょう。私たちは、人生を整理して、何が捨てるべきものなのか、捨ててはいけないものなのかをよく整理して、本当に人生に祝福をもたらすものだけを大切にしていきたいものです。 | ||
| キリストにある祝福 聖書の中には、キリストにあって、キリストによって、キリストのうちに、といった表現がたくさん出てきます。何気なく読み過ごしてしまう言葉ですが、この言葉に注目して聖書を読んでいくと、キリストにある祝福の豊かさに圧倒されます。例えば、エペソ書の一章の中だけでも、次のように出てきます。 | |||
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「キリストにある、忠実な聖徒」 「キリストにおいて、祝福されている」 「キリストのうちに、選ばれている」 「キリストによって、神の子とされている」 「キリストのうちにあって、罪が赦されている」 「キリストにあって、一つに集められている」 「キリストにあって、天国の保証が与えられている」 「キリストのうちに、神の全能の力がある」
これらが、キリストの内にある自分の姿なのです。 | ||
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イエス・キリストを信じてクリスチャンになるということは、「キリストの内に自分を見出す」ことが出来るようになるということです。アダムにある古い自分から、キリストにある新しい自分を生きるのです。 このように自分の属する場が変わると、今までとは全く違った世界が広がってきます。 | |||
| すべてはキリストから始まる
キリストの内にある自分を生き始めると、夫や妻に対しても、子供に対しても、その人をキリストの内にある者として見ることが出来るようになります。目に見える状況がどうであれ、「キリストにあって、本当のあなたは、〜〜なんだ」と見ることが出来るなら、それは素晴らしい結果をもたらします。 |
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