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良いお手本となるために (夫婦05)
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キリストを信じる時、私たちは新しく造られた者になります。そして、キリストにあって、癒された者として今を生きています。しかし、それではなぜ今でもなお、このような事を学んでいるのでしょうか。癒されたのなら、もうそれで充分ではないのでしょうか。あるいは、中には癒されたはずの私が、新しく造られたはずの私が、どうして・・・・と思いたいくなる現状に言い知れぬ行き詰まり感じている方もいるかもしれません。 | ||
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さて、そこで以前に言及した「霊的幻視痛」や「条件反射」ということを思い出していただきたいのです。私たちの潜在意識に刷り込まれた思いというものは、それ以上の刷り込みをする必要があるのです。コンピューターのプログラムを上書きするように、神の新しい情報で、私たちの生き方のプログラムを書き換えるのです。しかし、ここで重要なのは、私たちは機械ではなく人間だということです。もしコンピューターと同じように、勝手に私たちの人生が書き換えられたらどうでしょうか。朝起きたら、まったく違った人格になっていたとしたら、こんな恐ろしいことはありません。神は、私たちの人格を尊重されますから、私たちの意志や感情、決断を大切にしてくださいます。 | |||
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例えば、親から受けた酷い仕打ちに対して、怒りと憎しみを持っていたとします。そんな人がキリストを信じて、癒されました。しかし、親を赦すかどうかは、本人の意志で判断することです。神は赦しなさいと語られます。しかし、赦すかどうか判断するのは本人です。この場合、本人が赦していない自分の心に気づく必要があります。また赦さないことへの人生の影響、人間関係や価値観への影響も知る必要があります。それらを知った上で、なお本人が判断するのです。 本人が赦すことを選ぶ時、「赦し」が実体となって、その人の人生に実を結ぶのです。神の言葉で人生が書き換えられることを選ぶとき、私たちのその意志は、私たちに対する神の永遠のご計画と一つになって「赦す」ことから来る自由と解放を得ることが出来るのです。 |
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| 「罪の増すところには、恵みも満ち溢れました。」 (ローマ5・20)
私たちが、もしキリストに忠実に従っているなら、このお方と共に生きているなら、私たちの心は罪や傷に対して、いよいよ敏感になってきます。しかし、それはいわゆる過敏ではありません。聖霊のもたらす気づきであるなら、そこにはいつも十字架と復活があります。罪に対して、恵みが増し加わるのです。しかし、この世のもたらす気づきは、自分で自分を責めたり、過敏にさせたり、十字架から目をそらせるものです。 | |||
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問題を光に引き出すのは神の働きです。悪魔は問題を暗闇に留まらせたいのです。問題があることに気づかれると困るからです。ですから神のダイナミックな働きのある所では、絶えず問題が見えています。逆に、問題がありません、というのはただ隠されているだけかもしれません。 「事実、存在する問題が光に引き出されたのなら、それは神の働きです。しかし、実体のないものが幽霊のように独り歩きしているのなら、それは悪魔の偽りです。」 (エペソ2・8〜14参照) |
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これは教会の歩みの中にもしばしば起こって来ることです。また私たちの心の問題にも適応できる真理です。もし、事実存在することに光が当てられているなら、主の御前に出ることです。また一歩キリストのお姿に近づく時だからです。しかし、すでに光に変えられたことを突っつかれているのなら、それは信仰の言葉で退けるべきです。
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モデルの必要性 さて、今回は前置きが長くなりましたが、これからお伝えしたいことは、モデルの必要性です。 ところで人間は、夫婦関係や親子関係の在り方というものを、どのように継承してきたのでしょうか。一つには本能的なものがあります。誰に教えられなくても持っている父性、母性、異性愛というものがあります。それに加えて体験があります。目で実際に見たこと、肌で感じたことです。それは自分の親や親戚、隣のおじさん、おばさんの姿を通してです。特に両親の影響の大きさは言うまでもありません。さらに、書物やマスコミからの知識としての情報があります。 | |||
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本能、体験、知識ということですが、皆さんは、自分自身の夫婦関係、子育ての仕方に関して、一番大きな影響を受けていると思われるものは、どれでしょうか。本能のままに行動している人。自分が見た通りに、された通りにしている人。育児書やネット、人からの情報に頼っている人。ほとんどの場合ミックスしていると思いますが、どれが一番強いでしょうか。それはなぜでしょうか。
マクロ的な見方ですが、現代の傾向として、まず本能が当てに出来なくなって来ています。夫婦間にだけ許されている異性愛に関してはもちろんのことですが、父性や母性も、危機的な状況にあります。最近起こって来たことですが、母親が子供を殺すという事件があります。実の子であれ、他人の子であれ、母という立場にある者は、母性のゆえに子供を殺すことは有り得ないと言われて来ました。しかし、現代はその原則が崩れています。父性にしても、本来父になった者は、家族を守り、教え、導く役割があるはずですが、父としての責任を放棄している、というよりはそれだけの責任を負い切れなくなるくらいに心が弱くなっています。 | ||
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また、夫婦とはこのように素晴らしいものだ、私もこんな夫婦になりたいと思わせるモデルが、テレビの世界ではなく、現実の目の前に見当たらなくなって来ています。逆に、こうはなりたくないという意味でのモデルが増えていように思います。 そこで、どうしたらよいのか迷う中で、様々な情報を求めます。それに拍車をかけるように、ありとあらゆる情報がインターネットを通じて流れてきます。しかし確固たる信念、モデルがないために、情報の洪水に流されて余計に混乱している状態があります。これが現代の傾向のように思われます。
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まず本能的なこと、つまり一人の人間としての在り方が問われています。人格の回復を通して神が全ての人間に与えている本能が正しく機能する。癒しが必要だということです。そして情報においても正しい情報を見分けることが大切になります。でないと情報の洪水に翻弄されてしまいます。ですから学びが必要です。そして今日、特に強調したいのが、体験的に夫婦、育児の仕方を知るということです。 一人の人間として神のかたち(人格)が回復し成長していくこと。学ぶことによって真理の知識を得ること。さらにそれらに加えて、実際に見て、触れて、体験的に知るということなのです。 |
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私たちの、人間として、信仰者としての成長の中に、この部分が空洞化している、すっぽりと抜けてはいないでしょうか。 | |||
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例えば、両親から愛された経験がない、あるのは酒乱で暴れる父親の姿、殴られて泣き叫ぶ母親の姿、そんな中で育った子供がやがて大人になりました。深く傷ついた心から自暴自棄になった時期もありましたが、神の恵みによりクリスチャンになり、牧師にまでなりました。そして結婚しました。もちろん妻を愛しています。しかし、愛し方が分からないのです。分かっていないということも分からないのです。本人にとっては未知の世界なのです。確かにキリストにあって新しく造られたのです。そして神学校でも学んだのです。しかし、もう一つ、実際に妻にどうすることが愛の現れなのか、それには見て学ぶことの出来るモデルが必要なのです。つまり、実際にどう生きているかが重要なのです。
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さて、皆さんはモデルを持っておられますか。一番幸せなことは、両親を心から尊敬し、両親のような夫婦になりたい、自分がされたような育児をしたい、なぜなら自分はこんなに幸せになれたから、と言えることです。逆に不幸なことは、自分の両親のような夫婦にはなりたくない。両親を見ていると結婚への夢がなくなる。また自分がされたことは絶対に自分の子供にはしない、ということです。 | |||
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| 本来、父親は息子にとって父親のモデルです。母親は娘にとって母親のモデルです。夫は息子にとって夫のモデルです。妻は娘にとって妻のモデルです。そのように本来、私たちはモデルを見て学び、今度は自分自身がモデルとなるのです。そのようにして根源的なモデルである神のかたちが、人間の営みに反映されてくるのです。しかし、人間が神に背を向けて以来、人間はモデルを見失い、結果として自分もモデルとしての役割を充分に果たせなくなってしまったのです。 | ||
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特に夫婦の成長のためには、モデルが必要です。私も夫として、父として、男として生きるためにモデルを求めていました。なぜなら自分の両親はモデルには出来なかったからです。数年前、何を考えたのかビデオ屋で「大草原の小さな家」を借りてきました。そして一所懸命に見ました。インガルス一家の、それはまさに古き良きアメリカの姿です。信仰に支えられ、夫と妻が信頼し合い、家族が一つとなる姿は、一種のあこがれでもありました。インガルス一家の家長であるチャールズのようになりたいと真剣に願い、ビデオを見ながら学びました。一作目でチャールズが誤って愛犬を川に流してしまいました。不可抗力な事件で、決してチャールズの責任ではないのですが、チャールズは気落ちしている子供たちに謝るのです。それを見ながら、自分だったらこうは出来ないないだろうな、と考えたりしました。
この物語は、実話に基づいているし、信仰も同じなので、モデルにはいいなと思ったわけですが、モデルを探そうとする涙ぐましい努力でもあるのです。
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| モデルを探そう
「わたしがキリストに見習っているように、あなたがたもわたしを見習ってください。」 (第一コリント11・1)
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私たちは、キリストにあって癒されました。そしてこのようにお互いに学び合っています。でも、それだけでは不十分なのです。モデルが必要なのです。 私たちがモデルを探す上で、これだけは必要という条件があります。もちろん完璧な人間などいないわけですが、しかし、これだけはという条件です。それは、先の聖書の言葉にあるように、「自分はイエスをモデルとしている。そのようにあなたがたも私をモデルとしなさい。」と言える人です。 | |||
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モデルとなる夫婦の姿を通して、会話の仕方、愛情表現の仕方、秩序の在り方、自分だったら、このようにはできないなど、違いから学ぶことが出来ます。モデルであっても失敗がないわけではありません。しかし、夫婦喧嘩の仕方もまた学ぶことが出来ます。 自分をモデルにしなさいと言える確信は、自分とイエスとの関係からきます。自分自身に自信を持っている人は、自分のやり方を絶対正しいとして押し付けてくることもあります。これではモデルに出来ません。 教えるのでも、押し付けるのでもなく、ただありのままを見せてくれる、イエスの平安の中に生きている夫婦がモデルとなるのです。 |
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そんなモデルとしての夫婦がいたら素晴らしいです。もしそんな出会いが与えられたら、出来るだけお互いの夫婦四人で交わることです。一緒に食事をしたり、時には相談に乗ってもらったり、同じ時を過ごすだけで、大きな祝福があります。交わりを通して体験的に学ぶことを通して、いよいよ癒された者としての生き方が身についてきます。 特に日本的な感覚では、「夫婦喧嘩は犬をも喰わぬ」と言って、夫婦の問題に他人は入れない、という風潮があります。しかし、それが問題をいよいよ深くしていきます。
私たちは、夫婦のありのままの姿を知ってもらえる相手が必要です。真実を知っていてもらうだけで、大きな助けになるのです。 | |||
| 守られることの必要
さて、個人はもちろんですが、夫婦という単位でも、守りが必要です。最大の守りは、内側に暗闇を持たないということです。自分たちの弱さや失敗を話せる相手、自分たちのありのままを知っていてくれる存在が必要です。自分たちの表の姿と実際の姿にギャップがあると、それは心の中に、罪責感を植えつけます。自分を偽善者として裁き始めます。それでますます、暗闇に飲み込まれていきます。 |
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もし私たちがモデルと出会うことが出来たら、同時に守りをお願いするのです。そして、自分たちの実際の姿を知ってもらうのです。モデルは、裁かない人、弱さを理解してくれる人、適切なアドバイス、厳しい直言をしてくれる人でなければなりません。 このようなモデルを言い変えると、霊的な父と表現できます。目に見えない神が、目に見える方(イエス)としてこの地上に来てくださった。その意味は、私たちには目に見えるモデルが必要だということなのです。そしてイエスご自身をモデルとしている、聖霊に満たされた、イエスの心をもったモデルが必要なのです。 私たちは、モデルでもあり、守り手でもある、そんな霊的な父が必要です。 どうでしょう。あなたは霊的な父を持っておられますか? もしいなければ、出会いを求めましょう。 そして、やがて私たち自身も、モデルとなれるように、成長していきましょう。
「私たちはみな、顔のおおいを取り除けられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられていきます。」 (第二コリント3章16節) | ||
文:関 真士
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