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「父性」と「母性」2 (夫婦08)
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父性と母性もまた、神のかたちの現れであり、「人格」の内容を表現するものです。ですから両方の性質は、一人の人の中に同時に存在する性質であって、男性だから父性、女性だから母性ということではありません。確かに大きな見方では、男性は父性が強く、女性は母性が強いということは言えると思いますが、一人の人間として、この両方の性質をいかにバランスよく持つことが出来るかが人格的な成熟度です。また夫婦という単位で見るならば、両方の性質が夫婦の中でバランスよく機能しているかどうかが夫婦関係の成熟度です。
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| 父性と母性のバランス
最近、男性の女性化、女性の男性化ということが言われます。非常に母性的な男性、非常に父性的な女性。夫婦における父性と母性の役割が逆転しているという現象が報告されています。この現象の原因が単に社会状況の変化に伴うものであれば、バランスさえ取れていれば良いわけです。しかし、そこに傷ついた原因があるならば、それは決して良い実は結びません。例えば、男性の女性化が、父親との関係の希薄さや母親との満たされない関係から来ているのであれば問題です。女性の男性化も同じことです。傷ついた根からは傷ついた実しか結ばれません。バランスを取ることは困難です。 | |||
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例えば間違いを犯した人に対して、母性はまず赦そうと考えます。父性はまず間違いを正そうと考えます。バランスが取れている人は、その両方を表現することが出来ます。しかし、バランスが取れていない人は、どちらか一方だけになります。 子育ての中で考えて見ましょう。先にも述べたように、人格とは、父性と母性の両方です。どちらか一方では、人格ということは現すことが出来ません。子供の人格が成長するためには、この両方の性質が同時に表現される必要があります。
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子供は、常に叱られるようなことをします。その時に、夫婦であればどちらか一方が父性の役割をします。物事の善悪を明確にして、言葉で論理的に子供に説明し理解させます。時には厳しい懲らしめが必要な時もあるでしょう。そこでもう一方が母性の役割をします。子供に対して、どんなに失敗しても両親の愛は変わらないということを、抱きしめ、励まし、目に見える表現で子供に伝えます。夫婦が愛と信頼で一致していれば、子供は同時に二つの性質を一つのものとして受け取ることが出来ます。それによって子供の人格は成長していきます。 もし夫婦が一致していないと、子供は両方の性質の間を、時計の振り子のように行ったり来たりします。どうなるかと言うと、父性だけを受けていると、存在不安がやってきます。いつも評価され、裁かれているので、裁かれないために良い子を演じるようになります。心にはいつも受け入れられるかどうかという恐れを持つようになります。 | |||
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逆に母性だけを受けていると、成長への不安がやってきます。自分が包まれている巣の外に飛び出して行く勇気を持てません。いつまでも現状に留まろうとします。自分の足で立って、自分の人生を生きていく力を持てません。結局それも恐れが心を支配していることになります。
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夫婦がそれぞれ父性と母性の役割をしていても、夫婦に一致がなければ、子供はそれを一つのものとして受け取ることが出来ません。子供は混乱するだけです。 一人の人間が、ある時は猛烈に頑張って働きます。 しかし、思った通りの評価を得られないと、一転して自分の殻に閉じこもって、周りとの関係を絶とうとします。外向きに頑張っている姿と、内向きに引き込もっていく姿を行ったり来たりします。 それが神様のイメージに反映されると、いつも怒っている怖い神様、だから怒られないように逃げるか、良い信仰者を演じるかとなります。かと思うと決して怒らない、何でも許してくれる、甘くていい加減な神様を造り出してしまいます。その両極端な神様の間を行ったり来たりします。
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| 愛し方のモデル
本来一つであるべき父性と母性ですが、なかなか一つになれないのが現状です。どうしたら、もっとバランスの取れた者になれるのか、今回は聖書に出て来る一つの物語から学びたいと思います。 |
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さて、最初にソロモン王に訴え出たのは、子供を得た母親です。この母親の訴え出て白黒つけようという態度は父性的でもありますが、我が子に対する思いから出た行動ですから、やはり母性的です。当時の世の中ですから、日本でもそうであったように、お上に直訴することは切腹覚悟のことでした。イスラエルの国でも同じです。王様に直訴することは命がけのことです。まさにこの女性は、子供を得るためなら手段も選ばず、命もかけるという、それほどまでにして子供を得たいという、まさに母性です。 しかし一方で、子供を断ち切らないで生かすためには、自分が諦めるしかない。「生きている子供をあの女にあげてください」と言ってのけるです。自分の子供を奪おうとする憎いあの女に自分の子供をあげてしまうというのです。子供が生きるためには、これしか方法がないのです。子供が生きるために、自分の一切の権利を放棄することが出来る。これはまさに父性です。 子供を得ようとする母性、子供を生かすために、子供を手放す父性、この両方をこの母親は持っていたのです。 実は、どちらが本当の母親なのか、つまり血的にはどちらなのかは実際には分かりません。常識的には子供の命を尊ぶ方が本当の母親と思いますが、あくまでも事実は分かりません。 しかし、なぜこの母親が、子供の母親として認められたのかというと、それは母親に必要な「愛」を持っていたからなのです。 子供を得ようとする母性、これも愛です。一方、子供が生きるために手放そうという父性、これも愛です。どちらも、まさに愛です。 | ||
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同じ愛という言葉でも、母性的な愛、父性的な愛は、ずいぶん違って見えます。かたや手に入れようとする愛、一方で手放す愛。どちらも確かに愛です。愛とは、受容することでもあり、手放すことでもあります。 ここから学びたいことは、私たちが父であっても、母であっても、真に子供を愛するとは、子供の存在をありのままで受け入れること、そして子供の成長のためには、手放すこと。そのような父性と母性の両方が一つになった愛を持つことなのです。 愛するからこそ受容し、愛するからこそ切り離す。どちらか一方では、それは愛とは呼べないのです。二つの性質が一つになって初めて「愛」となるのです。 |
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| 愛の実践
私の長男は十三歳になりました。いよいよ思春期に入ります。ある友人も同じ年頃の男の子がいます。彼は、最近息子が本当に生意気になってきたといって嘆いていました。子供のままの可愛い声ではなく、声変わりをした大人の声になると余計にそう感じるそうです。確かに大人の声で色々挑戦的なことを言ったりするとそう感じます。しかし、それ自体は本当に成長のしるしであり、喜ばしいことです。 | |||
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数時間後、何気ない日常的な場面で、私はいつものように、長男に「おまえは何をやっているんだ」と批判的な、咎めるような口調で言いました。子供は少しムッとしているようでした。 その時、ああ私は、同じように子供から言われた時に本当に不愉快だった。しかし私もまた子供に同じような言葉を発しているんだなと。しかも、「何をふてくされたような顔をしているのか」などと追い詰めたりすることもある。ああ子供も大変だなと、変に納得したりしました。 | ||
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長男の人格が成長し、自分の言葉を発し始めて、改めて人格的な関係の持ち方について学び始めました。そして、いかに自分が、子供を一人の人間として、人格的な存在として接していなかったのかが分かりました。 愛するとは、相手のあるがままを受け入れること。さらに人格を尊重することです。子供は自分の所有物ではない、ペットではない、自分の欲求を満足させるために存在するのではない、自分の夢を実現してもらう自己実現の道具ではない。子供は感情のはけ口ではない。子供を一人の人間として、人格を尊重していくことが子供を生かすことであり、子供を愛することなのです。
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親が正しい愛し方をすると子供は生きます。先日、三歳の娘が体調を悪くしてお薬をもらいました。どうしても飲む必要のある薬です。しかし苦い薬のために、二度目にその薬を飲む時に、必死の抵抗を試みました。ありったけの力をもって、全存在をかけて、声も体も何もかも使って抵抗しました。なかなか飲んでくれません。親の方もほとほと困ります。 その時、私は三歳の娘に「話し合おう」と言いました。周りの子供たちは、その言葉に笑っていましたが、娘をひざの上に乗せて、どうして薬を飲む必要があるのか、飲まないとどうなるのか、ゆっくりと話して聞かせました。何度も繰り返しました。 | ||
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最初のうちは暴れていた娘も落ち着いてきて、飲むべきか、飲まないべきか、考え始めているのが分かりました。そうして、飲むか、飲まないか、どちらにするの? と問いかけると「飲む」と言うではありませんか。その瞬間、思いっきりほめてあげたのは言うまでもありません。薬を飲んだときには、家族総出で拍手の嵐です。 しかし、いつでもこのようにうまく行くわけではありません。こちらがストレスが溜まって余裕のない時は、「飲ませる」ために、大きな声で叱りつけたり、脅かしたり、なんとか飲ませようとしてしまいます。 しかし、三歳の子供であっても話し合うことができます。そして自分で判断することも出来ます。子供の人格を尊重してあげること、子供を賞賛すること、父性と母性が一つのものとして表現される時に、子供は愛を知り、愛の中に自分の存在を確立することが出来るのです。 | |||
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三番目の六歳の子供は、元気一杯です。外で遊んでいると、こちら目がけて矢のように走ってきます。そして私に飛びつき、私は彼を力一杯ハグします。するとまた矢のように飛んで行きます。しばらくすると、また矢のように飛んできて、ハグされて、また矢のように飛んでいきます。子供は愛を確認しに来るのです。自分の存在が愛されているか、大丈夫か、愛されていることに安心すると外にむかって思い切って出ていけるのです。それも一瞬のハグで確認できるくらいに彼の中では、愛が確立されて来ているのです。 もし、ここで親がハグに応えてあげなかったら、あるいは、ハグしたまま手を離さなかったらどうなるでしょうか。親は、子供が向ってきたら両手を広げてハグし、また子供が行こうとしたら両手を広げて手放すのです。受け入れること、手放すこと、この繰り返しによって子供はやがて、親の元に戻って来なくても大丈夫なくらいに、自分の存在を確立していくのです。
子供がまだ二歳や三歳の時、あるいは弟や妹が家族に加えられた時、ハグを求める時間が長くなります。それだけ自分が愛されていることの確認を求めているのです。そんな時には、子供がもういいと言うまで思いっきりハグしてあげることです。子供の中に愛が満ちると、子供は外に飛び出して行きますから。 |
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日本のある保健所で、三歳児の集団検診がありました。係りの人がやってきて、子供たちに集まるように声をかけました。ほとんどの子供たちが、親のひざから立ち上がって大人のいる方へ行きました。しかし何人かの子供たちは親から離れることが出来ません。お母さんも困ってしまって、何とか子供に自分から離れるようにと言うのですが、うまく行きません。 そんなお母さんの一人が、私の子供はうまく育っていないのではないかと心配になったのです。この相談を受けたある児童心理学の先生は、それはいたって正常なのだと答えています。その子供は、親の愛を確認しているのだと。親から離れた子供たちの中には、もう充分に親から愛情を受けているので、安心して親から離れて行ける子供と(実はそれは少ない)、親にハグされ、愛情を受けることを諦めている、三歳にして親に負担をかけない、だだをこねない良い子を演じてしまっている子供なのだと。 この親子の場合は、まだ子供が母親の愛情を求め、愛されることを期待しているのだから、とても正常な状態なわけです。ですから時に、子供が親にまとわりついて、親としては非常に難しいことでもありますが。出来る限り子供の欲求にそのまま応えていきたいと願うのです。子供にむかって手を広げて迎え入れてあげたいものです。
やがて愛に満たされた子供は、放っておいても外にむかって自分の世界を拡げ始めます。その時には逆に、手放してあげるのです。私たちの手を広げて羽ばたかせてあげるのです。 | |||
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逆に女性でありながら父性が強いという場合、多くの場合、父親は強圧的、律法的、支配的、つまり受容がない。母親の存在が小さい、関係が薄い、つまり母性のモデルがない、ということがあります。 こう見ると、自分自身の中に、父性と母性のバランスの乱れがあるとするなら、それはやはり両親との関わりが大きく影響しています。父性は父親との関わり、母性は母親との関わりです。そのような個人が夫婦となった場合、補う合うのではなくて、お互いの一方を伸ばし過ぎるか、つぶし合うかのどちらかです。 ある男性がいました。その方は小さい時に父親を亡くしました。小学生の時、担任の先生が何気なく言った「父親のいない男は、何か一つ物足りない」という一言が心に刺さりました。その通りだと思いました。 |
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子供に必要なのは、正しく愛されることです。父性的な手放す愛、母性的な受容の愛、両者が一つになってはじめて「正しい愛しかた」になるのです。
子供を愛することにおいて、共に成長していきましょう。
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文:関 真士
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