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切れる子と愛情不足(夫婦09)
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あくまでも、特殊な、普通ではない、めったに起こるはずのない事柄なのです。しかし、一連の事件を通して、何が不安を増大させるのかと言うと、事件を起こす人物が必ずしも特殊ではない、むしろ「良い子」「あの人がなぜ? 信じられない」というような、自分の周りに普通にいる人物だということです。 放火をして母と妹を焼き殺した高校生も、何の関係もない子供をマンションの上から投げ落とした男性も、実の娘と男の子を殺害した母親も、保育園のお母さんで、子供の送り迎えをしながら子供を殺害した母親も、私たちが日常的に接しているどこにでもいる人々なのです。確かによく調べれば、普通であるはずがないのですが、外見上は、いかにも犯罪を起こしそうな人物像ではないのです。 |
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| さて、いきなり暗い話しになりましたが、現実から目をそらしても何の解決にもなりません。むしろしっかりと現実を直視することによって、そこから希望を見出していきましょう。そのような希望こそが、真の希望なのです。 | |||
| なぜ切れるのか?
いわゆる「切れる」ということについて考えみましょう。切れる原因については色々言われます。ホルモン物質の影響、遺伝的な影響、脳の機能的な問題、食物の影響を言う学者もいます。医者、心理学者、社会学者、歴史学者、そのほか、それぞれが自分の立場から「切れる」問題を解明しようとします。 | |||
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切れるということは、もちろん昔もあったわけです。誰だって「もう頭に来た。限界だ!」という事は経験することです。昔から言われる「堪忍袋の緒が切れる」という表現は、切れることの内容をよく表している言葉だと思います。 人の心の中には、堪忍袋があり、その中に何かが溜まって来ます。ある時袋がもう一杯になって、袋の緒が切れて、中に溜まっていたものが爆発的に飛び出してくるわけです。 何が溜まるのでしょうか。出て来るものを見れば分かります。それは「怒り」です。ですから聖書には次のように記されています。 | ||
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「怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで、憤ったままでいてはいけません。」 (エペソ四章二六節) 怒ることは避けられませんし、人間として当然経験することです。しかし、怒りを持ち続けることは、堪忍袋に溜め込んでいくことなのです。聖書は、怒ること自体ではなく、怒りを溜めることを問題にしているのです。 | |||
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怒りという感情は、やっかいなもので外側に表現されない限りなくならないのです。なくなっていると思っていても、しっかりと堪忍袋に溜まっているのです。 切れるということは、この堪忍袋に溜まった怒りが、限界に達して爆発することなのです。 爆弾の威力を増すためには、どのような工夫をするかご存知でしょうか。出来るだけ硬い容器に火薬を詰めるのです。そして火薬に点火され、爆発のエネルギーが容器の中に溜められればられるほど、容器の強度が限界に達した時の爆発力は大きくなるのです。パンパンに張った風船と、ぶよぶよの風船と、風船が破れた時の爆発力はどちらが大きいでしょうか。ボールを、水の中に押し込んだ時、抑える力が強ければ強いほど、ボールが反発して飛び出す力は強くなります。
現代において、「切れる」ということが社会問題にまでなるような状況は、それだけ抑える力が強いということを意味しているのではないでしょうか。 |
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| みんな怒っている
日本において、例えば繁華街の人混みの中を歩いていて、あるいは多くの子供たちに囲まれて、一番感じる感情は、悲しみと怒りです。これは全く個人的な感覚ですから、証明も説明も出来ませんが、正直な感覚です。悲しみが増すと怒りとなり、怒りが熟成されると憎しみになります。 | ||
| 欲求不満から来る怒り
怒りが増している理由としてまず欲求不満を上げたいと思います。 |
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「人はそれぞれ自分の欲に引かれて、おびき寄せられて誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」 (ヤコブ一章一五節)
私たち人間が求めている本当の満足とは、物やグルメや何かで得られるものではありません。ある時、一人の青年に出会いました。彼の妻がいわゆる「買い物症候群」だというのです。クレジットカードの限度額一杯、それでも満足せずにサラ金からも借りて、ブランド物を買い溜める。部屋の中は毎日取り替えても追いつかない数のブランド品で埋め尽くされている。もちろんお金を返済できるはずもなく、借金地獄に苦しんでいるというのです。 | ||
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「聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているのです。」 (ローマ五章五節) 結局のところ、人間は誰しも愛に対して欲求不満なのです。本当に心を満足させてくれる、絶対的な愛を求めているのです。 この愛は、それ以外で代用することは出来ません。この人間として究極的な欲求を満たしてくれるのが、神の愛なのです。 現代は、欲求を駆り立てるような社会です。しかし、欲求不満はいよいよ増大しています。 一言で表現すると、愛されないことへの怒りが増大しているように思えます。 私たちが子供を育てる上でも、ただ欲求を満たそうとおもちゃを際限なく買い与えても、欲しいというものを何でも与えても、子供は何も満足はしない。むしろ逆に欲求をコントロールできなくなり、慢性的な欲求不満を持つことになります。あるいは、欲求を抑えようと、なんでもダメダメばかりでも、欲求不満が溜まるだけです。 私たちは、子供たちにもう一つの道を教えるのです。それは神の愛で満たされる道です。私たち親は、子供の心が愛されているという安心感で一杯になるように、心がけましょう。その時、子供たちは、この欲求を駆り立てる社会にあって、自分の欲求を正しくコントロール出来るようになるのです。 |
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| 抑圧される怒り
以前にも言及しましたが、特に日本人は潜在的な引きこもり傾向を持っています。自分の内側のことを、なかなか外側に出すことが出来ません。お隣の韓国の方と接する機会がありました。韓国の方々が話しているのを聞いていると喧嘩をしているようなのです。しかし、そういうわけでもない。彼らは何でもはっきり表現するので、横でみていると喧嘩をしているように見えるのですが、実は仲が良いということです。 | |||
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怒りを抑圧することは、自分を犠牲にすることです。それによって心も身体も蝕まれます。一方で怒りを出すことは、怒りをぶつけられた他者を犠牲にすることです。他者の心と身体を傷つけます。 それでは私たちはどうすれば良いのでしょうか。以前にも怒りの連鎖について言及したことがありますが、その連鎖を断ち切るためには、どうしたら良いのでしょうか。自分を犠牲にするのでも、他者を犠牲にするのでもない、自分も相手も傷つかない方法があり得るのでしょうか。 | ||
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聖書には、次のような言葉があります。 「まことに彼は、我々の病を負い、我々の悲しみを担った」 (イザヤ書五三章四節) 怒りは表現しなければなりません。しかし表現できる場所がありません。しかし、聖書によれば、イエス・キリストは、私たちの犠牲となって十字架にかかられたというのです。右記の言葉の彼とはキリストのことです。つまり、私たちの怒りは、イエス・キリストが担ってくださるのです。その時、怒りの犠牲になるのは、自分でも他者でもありません。キリストです。それがキリストの十字架なのです。聖書には次のような言葉もあります。 |
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「民よ、どんな時にも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。」 (詩篇六二編八節) 大切なのは、私たちの心を注ぎ出すことです。怒りという感情も神の御前に注ぎ出すのです。これが祈りです。祈りは、私たちの心の内にある全てのものを、そのまま出すことなのです。その時に、聖書は「神に信頼せよ」と呼びかけます。自分の中からどんな心が出てきても、神の愛は変わらず、自分を受け入れてくださっていることに信頼することなのです。その時に、私たちは安心して心を注ぎ出すことが出来るのです。 | ||
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「神よ、私の叫びを聞き、私の祈りを心に留めてください。私の心が衰え果てる時、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。」 (詩篇六一編一節) 誰でも、溜まりに溜まってどうにもならなくなった時、逃れ場を持っているかどうかが人生を決めます。神の元に逃れることが出来る人は幸いです。そのままの自分を正直に表現でき場を持てる人は幸いです。確かに人間同士の関係で、そのような場を持てるように私たちは求めていきたいものです。しかし、まず一個人として、神との愛の関係を確立することが優先です。 | |||
| 切れないで、結ばれるために
私たちが子供を育てる時にも、まず子供の個性をよく見分けましょう。子供によって溜めやすいタイプの子がいます。原因はいろいろあるでしょうが、とにかく表に表現するのが苦手な子です。
そしてもちろん何よりも、神に祈ることを教えるのが一番です。誰にも言えない、親にも兄弟にも友達にも。でも神様になら言える。このような最後の砦として、逃れ場として、神に祈ることの出来る世界を小さい時からしっかりと教えておきたいものです。 |
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「堪忍袋の緒が切れる」それは単に緒が切れるだけではなく、自分の心も切って傷つけ、相手も傷つけ、その関係も切ってしまうことになります。 ストレスの多い社会です。私たちは、いかに堪忍袋をいつも空っぽにしているかが大切です。コンピューターも古いデーターをいつまでも溜めていると動きが悪くなったりします。時にはすべてをエンプティにして、動きをリフレッシュすることも大切です。 子育てのことを考える時に、子供の堪忍袋をいつも軽くしてあげることを考えたいものです。
子供の心が何を叫んでいるか、その声が聞こえるでしょうか。「もっと愛して!」と叫んではいないでしょうか。子供の持つ「愛されたい」という欲求はどのくらい満たされているでしょうか。おなか一杯にご飯を食べれば、もういらないと言います。自分が愛されていることに自信を持っていると心が愛で一杯ですから、もう他の何かで満たそうとは考えません。 | |||
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子供の心を愛で満たしてあげるためには、まず私たち自身の心が愛で満ちていなければなりません。私たちの堪忍袋をエンプティにして、代わりに神の愛で満たしていただきましょう。愛が溢れて緒が切れるなら、素晴らしいことです。 さて、切れない自分であるために、切れない子供を育てるために、私たちに出来ることは、神の愛で心を満たすこと。その愛のゆえに、神の御前に心を注ぎ出すことです。ストレスの多い時代です。怒りを持ちやすい社会です。しかし、キリストのもとには、愛と赦しがあります。 |
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文:関 真士
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