説教 2005年09月

「宣教の可能性」

  ある日本で奉仕している宣教師が次のようなことを言った。「日本では福音を信じることは難しくない。難しいのは教会生活を送ることだ」。これは宣教の現場で体験させられた貴重な言葉である。私も日本で牧会をしていて痛感したのは、やはりキリスト教が日本という国の中に土着していかないということだ。宣教の文脈化という言葉が登場して久しいが、韓国の教会やアルゼンチンの教会、アフリカの教会などをみると、実に民族特有の教会のスタイルが出来ている。韓国の教会のスタイルは韓国式と呼ばれるほどに独特なものだ。  そこで、日本民族の教会とはどのようなものかを考えてみた。そしてまず直面したのが、日本民族とはどのような民族か?ということだ。そして考えたことは、戦後教育を受けてきた者の中には本来の日本民族を表現できるものはない、ということだ。むしろ戦前にその姿があるのではないか。明治時代の宣教師たちが、日本の人々の誠実、勤勉、忠実さに驚嘆したことが報告されている。かなり巨視的な見方ではあるが、日本人とは本来非常に高尚な人格を有している民族であると思えるのだ。しかし、近代化と共に、また戦後の新しい価値観の中で、これは日本に限らないことだが、古き良きものが失われて来たように思う。

 さて、そこで海外にある日系人教会に目を向けた時に、帰米二世の方々、戦後すぐに移民されて来た方々の中に、本来の日本人の持っていた高潔な人格を垣間見るのである。もちろん美化し過ぎることは問題だが、まだ「サムライ」がいるのである。私のような若輩には、一種のあこがれさえも感じさせる。戦前、戦後の『霊声』などを読ませていただくと、どうにも心が熱くさせられる。日本人に宣教する上で、「クリスチャンになることは、本来の日本人の姿を取り戻すことですよ」と伝えることは出来ないだろうか。そしてそのモデルが海外にある日系人教会の中に残されているのではないだろうか。すでに高齢になられている信仰の先輩方の生き様を、しっかりと見させていただきたいと願っている。

 Tコリント9:19〜23

副牧師、関 真士

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