説教 2006年12月


「御子は教会のかしらである」

  今、教会では重要な案件がいくつかある。新家屋の購入は決定したが、費用捻出のためのプログラムの策定や、礼拝時間の変更など、教会全体に関ることだ。
 それも、これも、理由は全て教会の人数が増えていることに起因する。まさに嬉しい悲鳴だ。

 今回の件に限らず、教会の全ての営みにおいては、「何が決まったか」ということ以上に、「どのように決まったのか」ということが大切であろう。決定に携わっている者達が、確かにこれは主にあって決められたことです、確信をもって言い切れるようでなければならない。ここには建前と本音があってはならない。どこをも見ても、誰がみても、確かに主の御心を第一としているのだという姿勢が大切だ。

 そこで、主の御心を求める上で二つの両極端に注意したい。一つは「主の御心は決まっているのだから話し合う必要はない。祈っていれば計画など必要ない。」というもの。もう一つは「これまでのクリスチャンとしての経験や知識に基づいて、話し合って決めていけば、それで主の御心を行なえる」というもの。
 主は私たちに理性的に知性的に考えて、話し合うことを求めている。また主からの啓示に従うことを求めている。一見相反するような、人の考えと神の啓示であるが、この両者が一つのものとしてある時に、初めて主の御心を悟ることが出来るのではないだろうか。

  率直に意見を述べ合いながら、知識と経験をフル活用して話し合い、かつ神からの御言葉による啓示を求めていく。なぜなら「御子は、その体である教会のかしらです。」(コロサイ1:18)とあるからだ。

  教会のかしらはキリストである。だから私たちは全力でこのお方の御心を求めるのである。そのための話し合いであり、祈りである。
今この時、教会は何をどのように決めていくのか。再確認して前進していこう。

関真士 牧師

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