説教 2008年03月


「受難節を迎えて」

 1月に教団の牧師リトリートに参加した。昨年と同じようにLAの郊外パサデナにあるカトリックのリトリートセンターを会場に行われた。詳しいことは分からないが、そこの名称にはPassionistとあったので、イエスの受難を特徴としている団体であるようだ。
 広い敷地内には、14箇所のモニュメントがあり、それはイエスの受難の行程を辿るものになっていた。12番目が十字架で、最後の14番目は空っぽの墓で終わっている。

 ある日、神の御前に静まりながら、イエスの十字架を黙想していた。そこで、ある矛盾に心の葛藤を覚えた。
 常日ごろから、心の健康ということを大切なこととして考えている。リトリートでも「燃え尽き」ということが話題にもなった。燃え尽きないように、あるいは傷つかないように、そのために休息を取り、静まり、主に癒されることを求め、他者との間に境界線を引き、自身が傷つかないように守っていく。確かに大切なことだ。
 しかし一方で、イエスの受難は、イザヤ53章やTペテロ2章後半に見られるように、罪、悪、偽りに対して黙して語らず、これは抑圧の極致である。イエスは「悲しみの人で病を知り」、自らを守るどころか、神の御姿さえも捨てられた。聖書は、「ここに愛がある」と説く。
 さらに聖書は、私たちにイエスの十字架を負って従うようにと招く、またイエスの十字架の受難を模範とするように語りかける。その中で、愛することは、痛むこと、苦しむこと、傷つくことであると悟る。
 さて、私たちは自分を傷つけるものに対してNoと言い、抑圧に対してもNoと言う。しかし、イエスに御足の後に従う道は、その逆であり、愛することは、すなわち傷つくことである。

 マザー・テレサの言葉が心に響く。
 「もし私が痛みを感じるまで(人を)愛し続けたら、その先にあるのは痛みではなく、もっと深い愛だけ・・・。」

 マザーの言う「もっと深い愛」…それを自分は知っているだろうか? 自分を守ろうとすると逆にもっと傷つく、しかし、愛するために自らを捧げる時、そこに痛みがあっても、その先には「もっと深い愛」がある。
 この受難節の時、共に、イエスの十字架の意味をもっと深く、豊かに経験させて頂こう。

関真士牧師

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