説教 2006年12月3日

「暗闇に光を」

「彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。 地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。  しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」

(イザヤ8章21節〜9章2節)

 今日から待降節(アドベント)呼ばれる週に入ります。イエスの誕生を待ち望む時です。今日は、その第一週ということです。救い主が誕生するまえ、人々はどんな思いで救い主の誕生を待っていたのでしょうか。 今読みましたイザヤ書9章は、有名なメシヤ預言と呼ばれる箇所であります。クリスマスのこの時期には、しばしば開かれる箇所でもあります。

 この救い主誕生の預言は、どのような民に向って語られたのでしょうか。それは最も救いを必要としている民に向って語られたのです。その民は、苦しみと暗闇の中にいました。しかし神はイザヤを通して、「苦しみのあった所に、闇がなくなる」と語られました。
 私たちは、イエスに出会う時に、「闇がなくなる」という経験をするのです。救われるということは、自分の内から闇がなくなるということです。
 「闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいたものたちの上に光が照った。」とあります。この「見た」「照った」という言葉は完了形です。すなわちすでに起こったことです。これから起こるのではありません。ですから「光を見せてください」「光を照らしてください」と願うのではありません。すでに、光はあるのです。イエスは、「私は世の光です」と言われました。イエスは光として誕生されました。そして全ての暗闇を光に変えてくださるのです。

 それでは私たちの内にどのような暗闇があるのでしょうか。さきほど読んだ箇所の前には、次のように記されています。「彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。」(8:21,22)
 暗闇の一つは、「飢え」とう暗闇です。今世界で3秒に一人の割合で、飢餓が原因で人が死んでいます。そのほとんどが子供たちです。また、いわゆる食べ物が捨てられるほど溢れている先進国では、特に日本では年間に3万人以上の自殺があります。実数はその10倍と言われていますから、一日千人弱の人が死んでいるわけです。そこに死を思うほどに苦しんでいる人の数をいれたらいったいどうなるのか。この飢えは、食べ物の飢えではなく、心の飢えです。私たちの胃袋は満たされていますが、私たちの心は飢えています。「飢えて、国を歩き回り」とありましたが、その通りに、どこにこの飢えを満たしてくれるものがあるのか、あそこに、ここに、歩き回っているのです。しかし、いくら歩き回っても見つからない。
 やがて、御言葉にあるように「飢えて、怒りに身をゆだねる」とあるように、満たされないことへ、怒りが生じてきます。今、誰もが怒っています。どうしたら飢えが満たされるのか、どこに行ったら、何をしたら、満たされるのか、世界中歩き回っても、それは見つからない。しまいには、「上を仰いでは自分の王と神をのろう」とあるように、そこまで行ってしまう。

 私たちは一体何に飢えているのでしょうか。パスカルという哲学者は、「人の心には、神の形をした空洞がある」と言いました。私たちの心の飢えは、神によってでしか満たされないのです。皆さんの心の中に、暗闇がありますか。飢餓という暗闇がありませんか。心は満たされていますか。イエスを受け入れている方の中にも、最近、心のお腹が減っているなと思う方はおられますか。
 聖書は「苦しみのあった所に、闇がなくなる」と語ります。それはイエスが来られる時に、そのような事が起こるということなのです。あなたの心の問題を解決する本当の方法は、イエスを心に受け入れることです。イエスについて話しを聞き、イエスについて学んでも、受け入れなければ何も始まりません。イエスについてではなく、イエスそのものを心に受け入れてください。イエスの命に触れるのです。

 イエスは、「私の世の光です」と言われましたが、それはどのような時に、誰にかたられたのでしょうか。ヨハネ福音書8章にそれは記されています。

 一人の女性が不倫の現場を捕らえられました。当時の法律では、石打ちの刑となります。この女性は、命をかけて不倫をしていたわけですが、やはり心に満たされない飢えを持っていたわけです。イエスに敵対する者たちは、この女性を利用して、イエスを問い詰めます。この女性は石打の刑にするか、許してやるか、どちらにするのか、という問いかけです。それに対してイエスは、「罪のない者が最初に石を投げなさい」と言われました。そうすると、誰一人、石を投げる者はいませんでした。そして群集は皆去っていきました。聖書には「女は、そのままそこにいた」と書かれています。
 この女性は、罪を犯したそのままの姿でイエスのもとに残りました。イエスは、この女性に「わたしはあなたを罪に定めない」と語られました。そして「わたしは、世の光です。」と語られたのです。この女性の心の飢えは満たされました。愛され赦されることによって、もはや闇を歩む必要がなくなったのです。

 イエスは、今日も、私たちに、同じメッセージを語られます。どうぞ、イエスを心に受け入れてください。そしてイエスと共に、光の中を歩む人生を手に入れていただきたいと思います。

関 真士 副牧師